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第9部 結局、何に目覚めるのか

更新日:1 日前


1.最近の現実との関係

最近、私たちの家では聖書について激しい議論が続いている。

特に問題になっているのは、聖書の日本語訳だけではなく、原語では実際に何と言っているのかということである。


また、後世の宗教的・政治的利用によって意味が変えられていないかという点も調べている。

そして、「真実」とは誰かが外側に持っている正解を手に入れることなのか、それとも、実際に生きながら確かめ、その中を歩くものなのかという問題もある。


この現実の状況を考えると、夢の呼びかけを、まず私たち家族に向けられたものとして考えることには意味がある。


何が私たちの家へ入ってきているのか。

何を真理だと受け取っているのか。

誰かの説明をそのまま運んでいないか。

本来の意味まで自分たちで確認しているか。

そして、それを家族の中で、次の世代へ何として渡しているのか。


さらに第二ヨハネ自体も、「真理を知る」だけでなく、「真理の中を歩く」ことを問題にしている。

ここでも、知識として持つ真理ではなく、実際に歩く真理というテーマが現れる。


2.「もたらす者たち」とは誰なのか

ここまで考えると、φέροντες――「もたらす者たち」を、まず夢の中に実際にいた者たちから考えることができる。


そこには、私、相棒さん、私たち側の子どもたちがいた。

そのため、私たち家族自身が「もたらす者たち」の中に含まれているという読みが可能である。

しかし、夢の中で何かを運んでいるのは私たちだけではない。

女性自身も、何かを私たちの家へ持ってきている。


彼女は自分の名前を示し、それを日本語にしてほしいと私に伝えた。

私はそれを受け取り、解読し、日本語へ橋渡ししようとしている。

そして、それを受け取った誰かが、また次の誰かへ渡していく可能性もある。

そう考えると、「もたらす者たち」には二つの層があるように見える。


一つは、私・相棒さん・息子たちという、私たち家族。


もう一つは、何かを受け取り、それを次へ運んでいく人々全体である。


つまり、「もたらす者」とは、最初から特別な使命を与えられた一部の人だけを指すとは限らない。

私たちはすでに、誰かから何かを受け取り、それを言葉や行動によって次へ運びながら生きている。

3.では、「何をもたらしているのか」

ここで重要になるのは、誰が「もたらす者」なのかということだけではない。

その人が、何をもたらしているのかということである。

人は、何も持たずに生きているわけではない。

宗教、思想、価値観、教育、家族の中で受け継がれてきたもの、社会の中で当たり前とされていること。

私たちはさまざまなものを受け取り、それを自分の言葉や行動を通して、また次の誰かへ運んでいる。

そこには、自分が意識して選んだものだけではなく、自分でも気付かないまま受け継いでいるものもある。


恐れ、偏見、誰かから与えられた考え、家族や社会の中で当然だと思ってきた価値観。


それらもまた、人から人へ運ばれていく。


だからこそ重要なのは、それが何という名前で呼ばれているのかではなく、実際に何をもたらしているのかを見ることなのだと思う。


たとえば、「神」「宗教」「正義」「平和」「安全」という言葉が掲げられていたとしても、その言葉だけを見て、それが何なのかを判断することはできない。

その結果として、実際に何がもたらされているのかを見る必要がある。


言(ロゴス)、真理、命、光、愛をもたらしているのか。

それとも、恐怖、支配、分断、破壊をもたらしているのか。


何を名乗っているのかではなく、何をこの世界へ運んでいるのか。

そう考えると、φέροντες――「もたらす者たち」という言葉は、同時に、

「自分が何を運んでいるのかを認識しなさい」

という問いを含んでいるように見える。

4.夢が伝えようとしているもの

ここで、前半の ὁράου と、後半の φέροντες が一つに繋がってくる。

まず、自分で見る。

知覚する。

認識する。

それまで見えていなかったものに気付く。

そして、目が開く。

そのうえで、自分のところへ何がもたらされているのかを見分ける。

さらに、自分自身が何を次へ運んでいるのかを見る。


そうすると、この夢の中心は、単純に「日本へ何かを伝えなさい」ということではない。


その前に、

「まず、自分自身が目を開きなさい」

という呼びかけがあるように見える。


そして、その目覚めの先に、

「自分が何を運んでいるのかも知らずに、運ぶな。」

という問いが続く。


誰かから渡された翻訳や説明をそのまま受け取るのではなく、自分で見る。

それが本当は何なのかを確かめる。

そして、自分がそれを次へ渡す時、自分は実際に何を運んでいるのかを認識する。

夢の中で私がしていたことも、まさにその流れに重なっている。


私は女性から何かを受け取り、それを読み解き、日本語へ橋渡ししようとしていた。

だからこそ、この夢における「翻訳」は、単に言葉を別の言語へ置き換えることだけではなく、その意味を認識し、届く形へ変換することとも重なって見える。


5.現時点での中心的な読み

以上をまとめると、夢の言葉は、

「認識しなさい。知覚しなさい。目を開きなさい。目覚めなさい――もたらす者たちよ。」

という方向に見える。


その第一の宛先として考えられるのは、私自身、そして、私・相棒さん・息子たちという私たち家族である。

しかし夢の中には、私たち家族だけではなく、ご近所さんという他者、彼女の子ども、私たち側の子どもたち、共同の家、そして日本が置かれている。


そのため、この問いは私たち家族だけで閉じるものではなく、

個人 → 家族 → 共同体 → 社会 → 日本

というように広がっている可能性がある。


日本へ広げるなら、それは単に「日本へ何かを伝える」という意味ではない。

日本では何が真理として受け入れられているのか。

何が人々の間で運ばれ、何が次の世代へ渡されているのか。

そして、その結果として実際に何がもたらされているのか。

その問いへと繋がっていく。


しかし、その出発点は遠くにいる誰かではない。

まず、私たち自身である。


私たちは何を見て、何を受け取り、何を信じ、何を次へ運んでいるのか。

そして私はその中で、見ること、認識すること、翻訳すること、橋渡しすること、必要な人へ届く形にすることという役割を担っているように見える。


そこから先へ、家族、共同体、日本語を使う人々、そして日本へと広がっていくのかもしれない。


続く。






 
 
 

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