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第7部 なぜ私が「日本語にする」役なのか


第11章 「日本語にして」と頼まれた意味


1.なぜ日本ではなく、アリゾナにいる私なのか

ここで疑問になるのが、もしこの言葉が家族だけでなく、日本あるいは日本語を使う人々にも向けられているのだとすれば、

なぜ日本にいる誰かではなく、アメリカ・アリゾナにいる私なのか

ということである。

しかし夢の女性は、「日本へ行って伝えて」とは言っていない。


私に頼んだのは、

「私の名前を日本語にして」

ということだった。


つまり夢の役割を分けると、女性は日本へ向かう側。私と私たち家族は、まずその名前を受け取り、意味を認識する側。そして私は、さらにその意味を解読し、日本語へ橋渡しする側。


日本・日本語を使う人々は、その言葉が広がる可能性のある側、という構図になる。

そう考えると、私自身が日本に住んでいる必要はない。

むしろ私に与えられている役割は、


まず自分自身と家族でその意味を受け取り、さらに日本語へ橋渡しすること

なのかもしれない。


実際、目覚めたあとに私は、読めない文字を思い出し、音を確認し、各国の文字を比較し、ギリシャ語にたどり着き、古代ギリシャ語の語形を調べ、聖書のギリシャ語本文や七十人訳まで確認し、その意味を日本語として理解できる形にしようとしている。


つまり夢の中で女性が頼んだ、

「私の名前を日本語にして」

という作業を、私はアリゾナにいながら続けている。



2.なぜイエス・キリストではなく、知らない女性だったのか

もう一つ興味深いのは、夢に現れたのが、イエス・キリストのような、最初から宗教的権威だと分かる人物ではなかったということである。


現れたのは、現実には存在しないが、夢の中では以前から知っている「ご近所さん」と認識していた女性だった。


しかも彼女は、自分から教えを説いてはいない。

「これが真理だ」と言ったわけでもない。


彼女がしたことは、自分の名前を書き、

「日本語にして」

と頼むことだった。


つまり彼女は、答えを教える教師というより、解読すべきものを持ってきた人として現れている。


もし夢にイエス・キリストのような人物が現れ、日本語で直接「こういう意味だ」と言ったなら、私は調べる必要がない。


しかし今回の夢では、読めない文字、知らない言語、意味の分からない名前が渡された。

だから私は、自分で見なければならなかった。

自分で調べなければならなかった。

原語まで戻らなければならなかった。


つまり夢の構造そのものが、

「権威ある誰かが言ったから受け入れる」のではなく、自分で見て、知覚し、認識する

ことを要求しているように見える。


これは、ὁράου という語から出てくる意味方向とも重なる。



3.なぜ女性だったのか

さらに彼女は、一人で現れているわけではない。

彼女には子どもがいて、私たち側の子どもたちも同じリビングにいる。

夢の中心には、女性、子どもたち、家という構図がある。

これは、一人の男性的な宗教指導者が上から教えを伝える場面とはかなり異なる。

むしろ、家族、共同体、次の世代という方向を感じさせる配置になっている。


そして第二ヨハネも、「選ばれた婦人とその子どもたち」から始まり、最後も「選ばれた姉妹の子どもたち」で終わる。


さらにその手紙の中では、家、真理の中を歩くこと、外から何がもたらされるのか、それを見分けることが問題になる。


夢の女性を第二ヨハネの「婦人」そのものだと断定することはできない。


しかし、

女性・子どもたち・家・共同体

という構造には、興味深い重なりがある。



4.女性は「答え」ではなく「入口」だったのかもしれない

女性が書いた名前を追っていった結果、私はギリシャ語にたどり着いた。

そこから、ὁράω/ὁράου と、φέρω/φέροντες が見えてきた。


さらにその二つの語を追うと、七十人訳や第二ヨハネという、聖書のギリシャ語世界へ入っていくことになった。


そのため彼女を象徴的に見るなら、

「聖書を翻訳された形ではなく、ギリシャ語側から持ってくる存在」

あるいは、

「原語に戻るための入口を持ってきた女性」

として見ることもできる。


彼女自身が答えなのではない。

彼女の「名前」が入口だった。

女性は何かをこちらへ持ってくる。

まず私たちの家族がそれを受け取る。

私はその意味を解読する。

そして日本語にする。


つまり、

女性 → 私たちの家・家族 → 私による解読・翻訳 → 日本語を使う人々

という流れを見ることもできる。



 
 
 

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