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第5部 第二ヨハネ――真理の中を歩く

第9章 第二ヨハネ――真理の中を歩く



第二ヨハネは13節からなる短い手紙である。

書き手は自らを「長老」と名乗り、宛先は、「選ばれた婦人と、その子どもたち」である。

まず、この手紙そのものが何を語っているのかを見てみる。


第二ヨハネ

1節

長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。

私はあなたがたを真理において愛している。私だけではなく、真理を知っているすべての者も、あなたがたを愛している。

2節

それは、私たちの内にとどまり、永遠に私たちと共にある真理のゆえである。

3節

父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平安が、真理と愛のうちに私たちと共にある。

4節

あなたの子どもたちの中に、父から受けた命令のとおり、真理の中を歩いている者たちがいることを知り、私は非常に喜んだ。

5節

さて婦人よ、私はあなたに新しい命令を書いているのではない。

私たちが初めから持っていたものとして、あなたに願う。

互いに愛し合おう。

6節

そして、これが愛である。

私たちが、その方の戒めに従って歩むことである。

そして、これが戒めである。

あなたがたが初めから聞いていたとおり、その中を歩むこと。

7節

なぜなら、多くの惑わす者たちが世に出ているからである。

彼らは、イエス・キリストが肉をもって来られることを認めない。

このような者が、惑わす者であり、反キリストである。

8節

自分たち自身をよく見なさい。

私たちが成し遂げてきたものを失うことなく、十分な報いを受けるためである。

9節

先へ進み、キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていない。

その教えにとどまる者は、父と御子の両方を持っている。

10節

もし誰かがあなたがたのところへ来ても、この教えをもたらさないなら、その人を家に受け入れてはならない。

また、その人に挨拶してはならない。

11節

その人に挨拶する者は、その人の悪い行いに加わることになるからである。

12節

あなたがたに書きたいことは多くある。

しかし私は、紙とインクによって書こうとは思わなかった。

むしろ、あなたがたのところへ行き、口と口で話したいと願っている。

私たちの喜びが満ちるためである。

13節

あなたの、選ばれた姉妹の子どもたちが、あなたに挨拶を送っている。


1~3節――婦人と子どもたち、そして真理

手紙は、選ばれた婦人と、その子どもたちに向けて書かれている。

そこでは最初から、真理と、が語られている。

長老は彼らを真理において愛していると述べ、さらに真理が自分たちの内にとどまっていると語る。

つまり手紙は、婦人、子どもたち、真理、愛という要素から始まる。


4節――「真理の中を歩く」

4節では、長老は、その婦人の子どもたちの中に、「真理の中を歩いている者たち」がいることを喜んでいる。

ギリシャ語では、περιπατοῦντας ἐν ἀληθείᾳ「真理の中を歩く」という表現である。

ここで真理は、ただ知識として「知っているもの」ではない。実際にその中を歩くものとして語られている。


5~6節――「互いに愛し合う」という命令を生きる

5節で長老は、「互いに愛し合おう」と語る。

そしてこれは新しい命令ではなく、「初めから持っていた命令」だと説明する。

6節では、愛と、「戒めに従って歩むこと」が結びつけられている。

ここで注意しなければならないのは、「愛とは、ただ何らかの命令に従って歩くことである」という意味に単純化しないことである。

直前の5節で示されている命令は、「互いに愛し合うこと」である。

つまり、互いに愛し合うという命令を知っているだけではなく、それを実際の生き方として歩むことが語られている。

したがって第二ヨハネでは、真理の中を歩くことと、互いに愛し合うことを実際に生きることが続けて語られている。


7節――惑わす者たち

7節になると、手紙の調子が変わる。

長老は、多くの惑わす者たちが世に出ていると警告する。

ここから、真理の中を歩くことだけではなく、外から来る教えにどう向き合うのかという問題が出てくる。


8節――「よく見なさい」

8節では、βλέπετε ἑαυτούςという命令が現れる。

自分たち自身によく注意しなさい」「自分たちをよく見なさい」という意味の表現である。

なお、ここで使われている動詞はβλέπωである。


9節――何にとどまるのか

9節では、キリストの教えにとどまる者と、そこから離れる者とが対比される。

ここでも問題になっているのは、単に、何を知っているのかということだけではない。何にとどまっているのかということが問われている。

前に出てきた、「真理の中を歩く」というテーマとも繋がっている。


10~11節――「この教え」をもたらすか

10節には、φέρειという語が出てくる。

これは、φέρω「運ぶ・担う・もたらす」の活用形であり、夢の後半の候補である、φέροντεςと同じ基本動詞に属する。


10節では、

「もし誰かがあなたたちのところへ来て、この教えをもたらさないなら」

という条件が置かれている。


では、ここでいう「この教え」とは何なのか。

その前の流れを見ると、7節では、イエス・キリストが肉をもって来られたことを認めない者について語られ、9節では、キリストの教えにとどまる者と、そこから離れる者とが対比されている。


さらに4~6節では、真理の中を歩くこと、そして互いに愛し合うことを実際に生きることが語られている。

ここまでヨハネ文書を通して見てきたキリストとは、

言(ロゴス)、真理、命、光、愛

である。


そして「言は肉となった」とあるように、それらは単なる知識や思想として語られるものではなく、肉体を持った人間の生き方として体現されるものでもある。

そう考えると、「キリストの教えにとどまる」とは、ある宗教の名称を掲げているかどうかだけで判断されるものではない。

問われるのは、

その人が、言(ロゴス)、真理、命、光、愛を実際に体現して生きているのか。


そして、

その人が、それらをもたらしているのか。ということになる。

つまり、ここで見るべきなのは、

その人が何を体現し、何をもたらしているのか

ということである。


そして10~11節では、「この教え」をもたらさない者を家に受け入れないこと、さらにその者に挨拶することについても警告が続いている。


12節――紙とインクではなく「口と口」

12節では、長老は、書きたいことは多くあるが、紙とインクでは書こうと思わない、と語る。

そして、στόμα πρὸς στόμα、つまり、「口と口で」「面と向かって」直接話すことを望んでいる。

第二ヨハネ本文では、紙とインクによって書くことと、口と口で直接話すことが対比されている。


13節――最後も女性と子どもたち

第二ヨハネは、「選ばれた婦人とその子どもたち」への言葉として始まる。

そして最後の13節では、「あなたの選ばれた姉妹の子どもたち」が登場して終わる。

つまり、この短い手紙は、女性と子どもたちという要素で始まり、最後にも、女性と子どもたちという構図が現れる。


ここまでは、まず第二ヨハネという手紙そのものの内容である。

夢との共通点が多く見られるのが気になるところだ。


第二ヨハネ本文の中で確認できる要素は、婦人、子どもたち、真理、真理の中を歩くこと、互いに愛し合うこと、外から来る者、見る/注意すること(βλέπω、φέρει――φέρω の活用形)、家、紙とインク、στόμα πρὸς στόμα(口と口=口頭で)である。



 
 
 

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