本来の自己に還る-6章. 純粋知覚の目覚め
6章. 純粋知覚の目覚め
内側の静寂が深まって来ると、物事の見え方が少しずつ変わって来る。
それは、特別な能力が開くということでは無い。
何か神秘的なものが見えるようになることでも、全ての答えが分かるようになることでも、急に完全な自分になることでも無い。
ただ、今までよりも少し、物事をそのまま見られるようになっていく。
これまでの自分は、目の前に起きていることを、そのまま見ていたようで、実はそうでは無かった。
誰かの言葉を聞く前に、過去の記憶が反応していた。
誰かの表情を見る前に、不安が意味を付けていた。
何かが起きた瞬間に、思考が判断を始めていた。
まだ何も確かめていないのに、傷ついた自分が先に結論を出していた。
あの人は私を否定している。
私はまた失敗した。
きっと嫌われた。
私は分かってもらえない。
これは危険だ。
これは間違っている。
私は守らなければならない。
そうやって、目の前の出来事よりも先に、内側の反応が世界に色を付けていた。
純粋知覚とは、その色付けが完全に消えることでは無い。
人間である以上、感情もある。記憶もある。傷もある。反応もある。怖さもある。
けれど、それらが見ている世界と、実際に目の前にあるものは、同じでは無い。
その違いに気付き始めること。
それが、純粋知覚の目覚めだ。
思考が判断し、感情が反応し、過去の経験が意味付けを始める前に、
物事を、ただ見る。
その静かな知覚を、ここでは純粋知覚と呼ぶ。
古い言い方を借りるなら、それは「単一の目(シングル·アイ)」とも呼べる。
相手の言葉を、ただ聞く。
今起きていることを、ただ受け取る。
自分の中で動いているものを、ただ見る。
そこには、急いで正解を出そうとする力みが無い。
誰が悪いのか。何が正しいのか。私はどう見られているのか。これは得なのか、損なのか。この感情は良いのか、悪いのか。
そうした思考の判断が動き出す前の、一瞬の澄んだ場所。
そこでは、物事が少し違って見える。
相手の言葉が、攻撃ではなく、ただ相手の状態として見えることがある。
沈黙が、拒絶ではなく、ただ沈黙として見えることがある。
不安が、未来の予言ではなく、今の自分の中に起きている反応として見えることがある。
怒りが、真実そのものではなく、守られなかった痛みの表れとして見えることがある。
すると、世界は少し静かになる。
外側が変わったからでは無い。
自分の内側で、すぐに意味を被せていた動きが弱まって来るからだ。
純粋知覚が目覚めると、物事を見ないふりができなくなる。
それは、都合良く美しいものだけを見るということでは無い。
むしろ、これまで見ないようにしていたものも見えて来る。
自分が本当は傷ついていたこと。
本当は嫌だったこと。
本当は怖かったこと。
本当は相手に合わせていたこと。
本当は分かっていたのに、分からないふりをしていたこと。
本当はもう終わっているものに、まだしがみついていたこと。
そうしたものが、静けさの中で浮かび上がって来る。
だから、純粋知覚は、優しいだけのものでは無い。
時に、とても鋭い。
自分に対しても、世界に対しても、誤魔化しが効かなくなっていく。
けれど、その鋭さは、自分を責めるためのものでは無い。
切り捨てるためのものでも無い。
ただ、本当のことを見せるためにある。
本当のことを見るというのは、必ずしも大きな真理を見ることでは無い。
今、私は無理をしている。
今、私は本当は嫌だと感じている。
今、私は怖さから正しさを握っている。
今、私は愛されたい気持ちを隠している。
今、私は分かっているふりをしている。
今、私は自分の感覚を置き去りにしている。
そういう、小さくて具体的な本当のことを見ることだ。
そこを見ないまま、どれだけ高い理想を語っても、本当の自分には戻れない。
目覚めたふりはできる。
分かっているふりもできる。
手放したふりもできる。
静かな人のふりもできる。
けれど、純粋知覚の中では、そのふりも見えてしまう。
だから、この段階では、少し恥ずかしさを感じることもある。
自分がどれだけ反応していたのか。
どれだけ守っていたのか。
どれだけ見たくないものを避けていたのか。
どれだけ自分に嘘をついていたのか。
それが見えて来るからだ。
けれど、その恥ずかしささえも、また責めるための材料にしなくて良い。
ああ、私はそうしていたのだ。
ただ、それを見る。
そこからしか、次の真実は開いて来ない。
純粋知覚とは、何かを信じ込むことでは無い。
むしろ、信じ込んでいたものが少しずつ外れていくことだ。
私はこういう人間だ。
あの人はこういう人だ。
これはこういう意味だ。
私はこうしなければならない。
私はこうでなければ愛されない。
私はこうでなければ価値が無い。
そうした決めつけの奥に、もっと生のままの現実がある。
そして、その現実に触れた時、自分の中の反応も、少しずつ透明になっていく。
私は怒っている。けれど、怒りだけが真実では無い。
私は怖がっている。けれど、怖さだけが真実では無い。
私は傷ついている。けれど、傷だけが私の全てでは無い。
私は反応している。けれど、反応している私を見ている意識がある。
その意識が目覚めて来ると、物事は、以前ほど自分を支配しなくなる。
感情は出て来る。
不安も出て来る。
過去の傷も反応する。
それでも、その全てに飲み込まれずに、見ることができる。
その見る力は、自分を突き放すためのものでは無い。
むしろ、自分の内側で起きていることを、静かに受け止めるためのものだ。
何かを変えようとする前に、まず見る。
何かを否定する前に、まず見る。
誰かを責める前に、まず見る。
自分を裁く前に、まず見る。
その見る力が目覚めるほど、自分の中で、本質の響きが聞こえ始める。
それは、大きな声では無い。
頭の声のように、急かしたり、責めたり、正当化したり、誰かに認めてもらおうとしたりはしない。
もっと静かで、もっと深い。
けれど、確かにそこにある。
私は、本当はこう感じている。
私は、本当はこれを選びたい。
私は、本当はもう、これまでの在り方を続けたく無い。
私は、本当は、もっと自分の中心から生きたい。
純粋知覚が目覚めると、その声を聞く準備が整って来る。
反応ではなく、思い込みでもなく、傷から作られた役割でもなく、
もっと奥にある、本質の響きに触れる準備が整って来る。
本質の響きに触れる。







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