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死と再生とアイデンティティ

私は太陽星座も月星座も蠍座である。

死と再生、フェニックスのように燃え尽きてもなお、再生する力を具現化しているようなもの。

その死と再生、成長のプロセス、変容のプロセスを常に意識して、日常を過ごしている。



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私が選択し、その方向を選ぶ時は、その道を信頼し、流れを信頼し、全身全霊でその方向へと進む。


徹底的に深く入り込んで、そこにあるものを全部見届けるところまで付き合うつもりで、最初の一歩を踏み出している。


進んでいくうちに、先が真っ白になってしまう瞬間がある。

進んで行くうちに、八方塞がりになっていくことがある。

この先の形が見えない。


この身動きが取れない、今までのやり方ではもう通用しない、と静かに分かってしまうポイントがある。

もちろん、「行き詰まったら全部ぶっ壊してゼロからやり直せばいい」というのは、現実的な選択肢ではない。


生活も責任も人間関係もあって、そんな乱暴なリセットは、絶対にやらない。


目の前で起きている物事の流れを信頼し、自分が今ここに置かれている立ち位置をも信頼して、とことんその流れに付き合っていくタイプだと思う。


かつては無意識の奥に沈んでいた「その燃え尽きからしか生まれてこない変容がある」という感覚は、今はもう意識の上に浮上していて、それを知った上でその流れに付き合っている。


だからこそ、流れが連れて行く先が、一度すっかり燃え尽きて灰になるような地点であったとしても、そのプロセスごと引き受けて歩いていく。


燃え尽きることよりもそのプロセス自体が一番重要であることを知っている。


その重要なプロセスを経てフェニックスのように燃え尽きることと、そこから新しい形で立ち上がってくること。


その両方をあらかじめ前提にしながら、死と再生/成長と変容のプロセスを、日常のあらゆる場面で見ている。


もちろん、これは「蠍座だから特別」という話をしたいわけではない。


誰の内側にも、それぞれのやり方で燃え尽きと再生のサイクルが息づいていて、ここで書いているのは、その変容プロセスのごく一部の断面にすぎない。


たまたま私は蠍座の象徴やフェニックスの比喩を借りて語っているけれど、テーマが変われば、星座が違えば、語り口も形もまったく違うプロセスとして現れてくる。


それぞれの人が、それぞれのタイミングで、自分なりの「フェニックス・ポイント」をくぐり抜けていくのだと思う。


長年ヒーラーとして自身の開拓、変容を促しながら、身をもって実験してきた。


自身がヒーラーだから、というだけではなく、魂の導きの通りに自分を向かわせるというのは、きっと魂の青写真だからなのだろう。


セッションの場でも、日常の何気ない会話の中でも、どうしても「エネルギーの流れ」と「意識の動き」から物事を見てしまう。


何度も同じテーマや壁にぶつかる度に、いやでも突きつけられるのは、ひとつのシンプルな事実だ。

日常でくり返している思考と行動と感情のセットが、今の現実を形づくっている、ということ。


頭の中でいつも回っている考え方。

気づくと反射的に選んでしまう反応。

ベースになっている感情の癖。


この一式を、ここでは「いつもの自分セット」と呼ぶことにする。


このセットが今の人生の質に、ほとんどそのまま反映されているように感じている。


だから、本気で現実を変えたいときに必要なのは、外側の出来事だけをいじることじゃない。

「いつもの自分セット」に気づき、少しずつ書き換えていくこと。


蠍座っぽく言うなら、古いセットを一度ちゃんと火にくべて、燃えたあとに残った灰の中から、まだ使えるものだけを拾い直すようなプロセスに近い。


私の中でいつも軸になっているひとつのメソッドがある。

「明確な意図」と「高い状態の感情」をセットにする、というやり方だ。


こうなれたらいい、こういう状態で日々を過ごしたい、という意図をはっきりさせる。

そして、その状態の自分が感じているであろう安心感や静けさ、喜び、感謝を、少しだけ先取りして身体で味わってみる。


頭の中だけで「こうなりたい」と考えるのではなく、そのときの自分の感覚を、胸のあたりからじんわりと再生してみる。


意図だけでもだめで、感情だけでもぼやける。

「意図 × 感情」というレシピで、新しい自分の周波数を先に身体に覚えさせておく。


もうひとつ、大きなテーマになっているのが、意図とサレンダー(委ねる)のバランス。


望みをちゃんと言語化して、自分がどうありたいかを自分に宣言することは重要で、その一方で、その望みが「いつ・どんな形で」現実化するかについてまで、全部自分で握りしめようとすると、途端に世界が苦しくなる。


「私はこうありたい」(私はこうである)と静かに決める。


その上で、「そのプロセスは、私の想像を超えたルートに任せる」と、いったん手を放す。


燃え尽きる覚悟で火をつけるのに、同時に、火の行き先まではコントロールしない覚悟も必要になる。この綱渡りみたいな感じが、今の私にとっての「変容の練習」になっている。


私自身がこのメソッドに気づいたのは、17歳の頃だった。大失恋の落ち込みの中、どうして自分はこうなのか、私自身が求める自分自身とは?を掘り下げていくと、自身の意図が大きくクローズアップされ、理想な自分像をイメージすることができた。


そして、その自分像に成り切る!!を徹底させていくと、だんだんとそのイメージ通りの自分に自然と成っていった。


ここから、「アイデンティティ」の話につながっていく。


私たちはよく、「私はこういう人間です」という言い方をする。


真面目、飽きっぽい、人見知り、世話焼き、不器用、頑張り屋。

もっときつくなると、「私はダメな人間だ」「私はいつも邪魔者だ」みたいなラベルまで出てくる。


こういう自己ラベルがいくつも重なって、「私はこういうタイプ」という自己イメージができあがる。

それを、心理学的にはアイデンティティと呼ぶのだと思う。


ここでポイントになるのは、それがどこまで「真実」なのか、というところだ。


アイデンティティは、事実そのものではない。事実+そのときの感情+自分でつけた意味づけの、パッケージだ。


子どもの頃の出来事。そこで感じた強い恥ずかしさや怖さ。大人から投げられた何気ないひと言。当時の自分が必死でひねり出した解釈。


そういうものが何度も重なって、

「私はこう扱われる人間なんだ」「私はこう振る舞うしかない人間なんだ」

という“物語”に変わっていく。


蠍座的に言えば、何度も焼かれるうちに、「焼かれ役の自分」という仮面が、本物の顔だと思えてくる、みたいな感じ。


私はよく、「アイデンティティは幻想だ」と説明するのだが、じゃあ、なぜ「アイデンティティは幻想だ」という言葉が出てくるのか。


ひとつめの理由は、記憶もストーリーも、思っている以上に編集されているからだ。


私たちは、すべての出来事をフルHDで覚えているわけじゃない。

抜け落ちている場面もあるし、あとからの解釈で色が塗り替わっているところもある。

でも、その編集済みフィルムをもとに、

「私はいつも見捨てられてきた」

「私は一度も認められたことがない」

というストーリーを組み立てると、実際にはそうでなかった場面まで、全部「そうだった」ことにされてしまう。


ふたつ目の理由は、立ち位置によって振る舞いが全く変わるからだ。


家族といるときの自分。

仕事の場にいるときの自分。

ひとりで好きなことをしているときの自分。


全部「私」なのに、ほとんど別人みたいな顔をしている瞬間がある。


それなのに「私はこういうタイプです」と一枚のラベルに押し込めようとすること自体が、けっこう無理筋なのかもしれない。


そして三つめの理由は、本気で内側のパターンを変えていくと、「私はこういう人間だ」という感覚そのものが、案外するっと変わってしまうことがあるからだ。


考え方の癖を、少し変えてみる。

感情の扱い方を、少し変えてみる。

いつもの行動パターンを、少しだけずらしてみる。


それを続けていくと、現実の反応が変わり、それに合わせるようにして、自己イメージもじわじわ書き換わっていく。


前は「私は人見知りだ」と思い込んでいたけれど、気づいたら「場によってはよくしゃべる人」になっていたり。


前は「私は何も続かない」と思っていたのに、よく見ると、一部のことは何年も続いていたり。


もしアイデンティティが、一切変えられない「本質」だけでできているなら、こういう変化は起きないはずだ。

変えようと思えば変わってしまう。


ということは、少なくともその一部は、「設定」に過ぎない。


この「設定」という感じが、私にとっての「アイデンティティは幻想」という言葉の中身に近い。

ここから先は、個人としての「私」という物語だけで世界を見る視点から、もう少し大きな意識の層へとにじり出ていく話になる。


アイデンティティが設定だとしたら、その設定を映し出している「画面」そのものはどこにあるのか、という問いにもなる。


私が「私はこういう人間です」と言うとき、その裏側にはいつも、「そう語っている何か」がいる。


喜んでいる自分を見ている何か。

落ち込んでいる自分を見ている何か。

アイデンティティが書き換わっていくプロセスごと、静かに見守っている何か。


それをここでは仮に「神意識」と呼んでみる。


神(宇宙、根源、ソース)というと仰々しいけれど、要するに「ただ在る意識」の側の視点だ。


個人としての私が、あれこれ悩み、喜び、燃え尽き、また立ち上がる一連のドラマを、そのままスクリーンに映している側の意識。


個人意識で生きているとき、私はどうしてもストーリーの中の登場人物として物事を受け取る。


「なんで私がこんな目にあうのか」

「どうしてあの人はああなんだろう」

「私はこういう性格だから仕方ない」


けれど、とことんまで燃え尽きて、古いアイデンティティのお葬式をしていくなかで、もうひとつ別の問いが立ち上がってくることがある。


「この出来事を通して、意識全体として何を学ぼうとしているんだろう?」

「この『私』という器を使って、何を体験し、何を表現しようとしているんだろう?」


その問いが立ち上がった瞬間、意識のピントは、個人意識から神意識のほうへ、ほんの少しだけスライドする。


物語の中から見ていた視点が、物語ぜんたいを見渡している視点へと、わずかに持ち上がる。


個人意識から神意識への変容というのは、ドラマを完全にやめてしまうことではないと思っている。

「私」というキャラクターを消し去ることではなくて、

そのキャラクターがどんな顔をしていても、その奥で常に静かに在り続けている意識のほうに、少しずつ軸足を移していくこと。


私は蠍座らしく、死と再生のプロセスを通して何度もアイデンティティを焼き直してきたけれど、その度に少しずつ、

「この人生は、私のものでもあるけれど、私だけのものではない」

という感覚が強くなっていった。


個人としての私が選ぶ意図や願いも大事にしながら、その奥にある「もっと大きな意図」にも耳を澄ませていく。


個人の物語を生きることと、神意識の視点から人生を観ていることが、だんだんと同じ場所で重なり始める。

その重なりの帯の中で、「喜びから学ぶ」という選択が、ごく自然な次のステップとして立ち上がってくる。

ここで大事だと思っているのは、「幻想なんだから全部捨てろ」という話にしないことだ。


アイデンティティには、私を守ってくれた側面もたくさんある。


あの時期の私は、その自己像がなかったら、生き延びられなかったかもしれない。

でも、もう役目を終えた自己像については、蠍座らしく、ちゃんとお葬式をしてもいい。


「ここまで本当にありがとう。 これからは、喜びから学んでいくね。」


そうやって、内側で静かに火を灯して送り出す。


灰になるまで燃やして、その灰の中から、まだ使えるものだけを拾い直す。

それが、私にとっての「フェニックスモード」だ。


「私はこういう人間だから。」という言葉が喉まで上がってきたとき、一度だけ立ち止まって、自分に訊いてみる。


それ、本当に絶対?それとも、昔の私が生き延びるためにつくった物語?


その小さな問いかけが、炎の中から新しい翼を広げようとしている、自分自身へのサインなのかも知れない。


そして、その瞬間から、私たちは少しずつ「新しい設定の自分」として生き始める。

いつもの自分セットを書き換えながら、死と再生を何度もくり返しながら、まだ見たことのない「私」という物語を、これからも古い殻の向こう側に書き足していくのだと思う。

ここまで書いてきたことは、とても個人的な物語でもあるけれど、きっとどこかで、あなた自身の物語とも響き合う部分があると思う。

何度も同じところでつまずいたり、もうこれ以上は無理だと感じるような燃え尽きの手前で、それでもなお立ち上がろうとしている何かが、自分の中に確かにあると感じる瞬間。


私はその「何度でも立ち上がろうとする何か」に、毎月の一斉遠隔ヒーリングという形で光を注ぐ場をひらいている。


一斉遠隔の時間は、個人のストーリーを消してしまうためのものではなく、「私はこういう人間だ」と信じ込んできたアイデンティティや、「いつもの自分セット」を、ただ神意識の光の中にそっと置き直してみる時間だと思っている。


個人意識としての私が抱えている痛みや誇りやクセを、そのまま抱えたまま、「この人生を通して、もっと大きな意識は何を学ぼうとしているんだろう?」という問いに少しだけ身を預けてみる。


燃え尽きの手前にいる人には、そのプロセスを静かに支える土台として。すでに新しい自分を歩き始めている人には、「喜びから学んでいく」という選択を、さらに深く身体に馴染ませていくための後押しとして。

そういう意図で、私は毎月、一斉遠隔ヒーリングの場を開いている。


もし今、あなたの内側で、古いアイデンティティがきしんだり、壊れかけたりしているのだとしたら、そのタイミングはきっと悪い知らせではない。

フェニックスが羽根を広げる前の、最後のひと燃え上がりかもしれない。


このブログで書いたことを、頭の理解だけで終わらせず、「実際に自分のエネルギー場で体験してみたい」と感じた人は、毎月の一斉遠隔ヒーリングという形で、そのプロセスをご一緒できたらうれしい。


それぞれの人がそれぞれのペースで、自分なりのフェニックス・ポイントをくぐり抜けていく、その一部分を静かに見守り、支える場として。そして、「もうこれからは、喜びから学んでいく」と決めた自分を、神意識の光の中でそっと祝福し直す場として。


12月の一斉遠隔ヒーリングは、

イワトビラキ・ヒーリング  12月20日

神との約束『IAM』一斉遠隔 12月21日 となります。 『冬至スペシャル』として一斉遠隔ヒーリング2日間どっぷり清めとなります。 イワトビラキ・ヒーリング単独 5,000円 神との約束『IAM』一斉遠隔ヒーリング単独 8,800円

冬至スペシャル【2日間セット】イワトビラキ + 神との約束『IAM』 一括 11,000円

どちらか一方だけ受け取っていただいても大丈夫ですし、2日間セットで、岩戸を開くプロセスとIAM(本来の自己)への立ち戻りを、ひとつの流れとして体験していただくこともできます。 お申し込みフォームをご記入の上、送信してください。 https://ws.formzu.net/dist/S617117130/ メールにてご入金案内、お知らせをいたします。

 
 
 

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